さらに新しい日記

さらに新しく作られた日記

風邪を引いたときは好きな食べ物を食べていい

「こうでなければならない」というような制限から何か得るものはあっただろうか?私の場合は得たこと以上の代償を払ってきたと思う。そのような制限を自分ルールと呼ぶとしよう。これは懺悔を含んでいることを前置きとするが、私は今までたくさんの自分ルールを作り、自分自身や身の回りの人に勝手に課してきた。簡単で比較的無害な例として「風邪を引いたときは好きな食べ物を食べていい」といったもので、そのルール作りとプレイに熱中するあまり、まさしく自分ルールという名前の iOS アプリを使って日常をポイント制ゲーム化していたことすらある。 このようなアプリが配布されていることから、私のように自分ルールを作って運用している人は自分以外にも少なからずいるのではないかと思うが、あくまでもこれは自分ルールである。他人に対しては適応外であることを深く念じておかねばならない。

風邪を引いたときに好きなものを食べる自分ルール程度なら自他の区別は簡単に付くし、それを他人に課そうとしたところで、実際食べることまでコントロールはできない。しかし、私は無意識にルールに価値判断を加えていた。つまり、風邪を引いたときに好きなものを食べないやつは損してる、といったように。というより、ルールの策定と運用は自分の価値観に基づいてなされており、その価値観を強固にするための材料だった。臨床心理学でいうところのスキーマというべきだろうか。

スキーマは認知や感情を形成する土台であり、人によって様々である。同じ状況でも人によって良いこと悪いことの捉え方が違うのは土台のスキーマに寄るものである。

今まで私は、ある人が私の自分ルールに沿った行動を取っていなければ、その人は私のスキーマを乱し感情を煽動する人間なのでワック、という自他を混同した短絡的思考で怒り狂ったり、連続しない自己の行動によって自爆していた。改めて言葉にすると頭が悪すぎて嫌になる。完全に自分ルールと決別したとは言えないが、最近はその思考を自分で捉えられるようになっただけ変わったと思う。

加えて最近思うことがある。でも、それでもいいんだよ。ということである。というか、いいというものはないように、だめというものもないし、それぞれを尊重するべきである、と。

私のスキーマは、人生は無意味で他人は信用してはいけないという主旨である。

これも尊重するべきである私たった一人の大切なスキーマである。もちろん、私が言葉にすることはできないけれど、あなたのスキーマも、どんなものであっても尊重されるべきスキーマ。人それぞれが違ったスキーマを持つから、それぞれが自分ルールを策定・運用していたり、結果として同じ時代や同じ状況にいても違う世界を見ている。それは現代の科学技術を持ってしても交わらないものであり、全てが尊重されるべき思考である。だから、私が勝手に自分ルールに反した人に怒りの感情を抱くのは私の中で勝手だし、仮に私が怒っている姿をあなたが見て何かを感じたとしても、そこからはあなたの見え方でしかない。それぞれがそれぞれの妄想の世界で生きているというのは、そういうことである、と私は捉えている。

みんな違ってみんないいし、みんな交わらない。自分の世界の存在を確認できるのは自分だけで、それを受け入れて祝福できるのも自分だけなのでしょう。皆さんのことは知らんけど、僕の中ではそういうことになってます。