さらに新しい日記

さらに新しく作られた日記

風呂が嫌い

銭湯の水風呂に入りながら考えている。ここ数ヶ月、銭湯にちょこちょこ通っている。私は毎日風呂に入る(or シャワーを浴びる)のが苦手で、外に出る予定がないとかで放っておくと2日風呂に入らないとかがザラにある。自宅の風呂場は寒いし掃除が大変であるという環境要因に加え、入浴行為自体のプロセスが多く、孤独で義務的な重労働に感じてしまう。そんな自宅での入浴行為と比べて、公衆浴場は広くて暖かく、床を自分で磨かなくてもいいし、ゆっくりと湯船に浸かれるから、とても好きだ。今年は出来る限り毎日入浴するという目標を掲げているので、今日は自宅の風呂で入浴する元気はないな、と判断したら積極的に銭湯に出かけている。

銭湯に来ると色んな年代や出身の人がいる。人の裸をまじまじと見ているわけではないが、当然色んな体型や肌の色の人がいて、全員が入浴行動を必要とする人間で、自分もそのうちの一人なんだよなぁという気持ちになる。生きていると垢が出る。

生きている人間の昨日と今日を比べても大した差はないけど、毎日垢が出て細胞は少しずつ生まれ変わっている。このような状態のことを動的均衡というらしい。垢が出た分新しい細胞の自分。毎日入浴するというのは、そういう新陳代謝の儀式みたいなものなのかもしれない、なんて思ってしまう。風呂が嫌いな自分は、潜在的に変化を恐れて今この状態の自分に執着しているんだろうか?

私は自分の身体について全く良いイメージを抱いてない。生きてると垢が出てプロセスの多い入浴を課せられるという生物的な特徴に付随する行動が嫌いだし、運動神経が悪く思った通りに動かせるような機能性もないし、造形も特に自分の好みではない。だけれど、そういう思考を生み出す脳も結局は身体の一部分でしかなく、生理や低気圧で身体が重いときに釣られて思考も鈍ると、自分の認知や思考もこの身体に属する一部でしかないんだ、とこの身体本位性を重く受け止める。

生きている限り身体が第一なのは、そうでしかないと受け止めるべきことなのだが、このことに落胆してしまうのには私自身の問題が関係している。一つは自分の醜形恐怖に近い性質だ。日常の中でひどいセルフ・イメージと戦わないといけない場面がしばしばある。パーツやバランスそれぞれに細かく美の基準を持っていて、それらを満たしていないので醜いという判断を自らに下しているときもあるし、自分という存在自体が醜くて汚いため、それに属する身体だから何をしたって醜いという自己否定もある。このバランスはどちらかが肥大したり縮小することもあるが、比較的気分がよく頭が冴えた感覚のときは前者が大きく、気分が落ち込んで自己否定気味のときはどちらかというと後者のほうが大きくなることが多い。

美容医療や、特殊なメイクアップ、こだわったファッションなんかはそういうセルフ・イメージを脱却するためにやっている部分がある。私は自分の意思と選択で腐ったセルフ・イメージをぶっ壊したいし、嫌いなままの身体をそのままの保有するのではなく、この身体を選んだという自発性を獲得し、自己の本質を自分の意思と選択に寄せたいのだ。

毎日風呂に入るのも、自分が作った新しい細胞をようこそと受け入れてやり、出た垢には嫌いな自分とおさらばする、そういう意識でやればいいのかもしれない。ただ風呂に入るというだけなのに、こういうことを考えすぎているから、風呂が嫌いになるのかもしれない。