さらに新しい日記

さらに新しく作られた日記

諦めは悪魔の誘惑

まず最初に、私は欲しいものがあったらどんな手段を使っても手に入れたいと思っている。でも本当に欲しいものは手に入らないのだ。その事実から回避するために、汎用的で価値のあるものを求めることにがむしゃらになろうとしている。そういうときの私のやり方といえば逆張りばかりだ。例えばお酒を飲まない理由だって、その場その場で適当な理屈を取って付けて交わしてきたけど、本当は親しい仲間とお酒を飲んでも楽しい時間を過ごせない自分の卑屈さをお酒及び飲みニケーションに荷担させて少しでも軽く見せようとしている。もっというと卑屈さの表れを楽しめないことの上にお酒を選ばないことに被せることによって、これは自分の選択だからと保険をかけて正当化している。じゃあお前は一体何をすれば楽しいのか、とはいえ楽しさを素直に享受できないから苦しんでいる。生きててもいいことがないとずっとこの調子で嘆いているが「いいこと」に対して愚直になろうとしない自分自身の回避性のせいであることは自明だ。自分の中のリバタリアンが、対処療法としてお金をたくさん集めて誰の助けも求めず1人で生きていけるように頑張るのも自由だと誘惑する。放っておくとすぐ顔を出してくるこの悪魔は自分の卑屈さを肯定してくれる。こうして自己正当化の理由付けばかり上手になっていって、根本的な問題解決はちっとも進まないのであった。それならいっそ悪魔に身を委ねて、この世の限りの泥を啜って資本主義の豚としてお金を増やすことだけに貪欲になってみようか。突き抜ければどんなことでも実りはあるかもしれない。ここまでもちろん悪魔の誘惑であるが、やることそのものは勤勉に働いて日々節制し長期株式投資に励むことだから、傍から見れば堅実な処世術と同じだ。20年前の自分から見た自分は夢を諦めたクソつまらない大人に見えるかもしれないけど、仮にタイムマシーンがあったとして過去の自分に今の自分をどうやって説明しようか?考えても無駄かもしれない。これが愚直になるということなのかもしれない。顧客が本当に欲しいものは、回りに回って全部ぐちゃぐちゃになって溶けてしまった。